8月 平和を願う歌に

  • 2018-08-28 10:50
  • 一般公開
  • テーマ:戦争
8月もそろそろ終わります。

8月6日、9日、そして15日。いやおうなしに過去の記憶が蘇り、そして黙祷をささげる8月。

私は終戦を疎開先の軽井沢で迎えました。小学校ごと疎開し、みんな親元を離れての集団生活。当時私は小学四年生でした。ラジオで聞いた玉音放送は聞き取りづらくほとんど理解できませんでしたが、日本が戦争に負けたということだけはわかりました。

このあとどうなるかまったくわからぬまま、みんなで「きっともう、家族には会えないに違いない」と泣いたことを覚えています。

戦争中ではっきりと覚えているのは、空から降ってくる焼夷弾と爆弾の恐ろしさ。防空壕に身を寄せて降ってくるおびただしい光と爆音におびえていたこと。そして、ただただひもじかったこと。その2つは、鮮明な記憶として残っています。

疎開先では、来る日も来る日もたいしたものは何も食べられず、食べることができるのは自分たちが畑で作ったものだけ。そんな自給自足の生活でした。自分たちより小さな下級生もたくさんいます。みんな親元を離れて暮らし、みんながひもじい思いをしてているのですから「さびしい」「おなかがすいた」と泣くことさえできませんでした。食べるものがとうとうなくなったときは、お手玉の紐をほどいて小さな豆もかじりました。

このブログでも紹介した、こうの史代さん原作の「この世界の片隅に」。市井の人々が経験した“等身大の戦争”を描いた作品ですが、今月のNHKのクローズアップ現代でも、「あちこちのすずさん」として、当時、戦中を生き抜いた庶民の人々の暮らしの記録が紹介されていました。

私の母も、すずさんのようにたくましく、毎日の暮らしに工夫をしながら生きてきた一人です。さつまいもの葉っぱとツルしかなければ、それを配給の鮭缶と合わせた煮て、ひねしょうがをきざんでのせた煮物が食卓にのぼりました。それがなんと美味しかったことか。また、さつまいもしか食べるものがないときは、ふかすだけではなく茶巾しぼりにしてひと手間加えるなど、食べるものがろくにないときにも、思わず顔がほころぶような工夫をほどこしてくれました。

疎開先では、そんな母が作った食べ物のことばかりを考えていたように思います。

戦後73年を迎え、実際に戦争を体験した世代は高齢化し、ますます戦争の本当の悲惨さ、酷さ、辛さを実体験した人が少なくなっていきます。あの戦争を忘れないために、できることとは何か…私は、そんな思いで8月6日、長崎の平和記念式典にテレビのチャンネルを合わせていました。

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、子どもたちによって歌われる「あの子」という曲をご存知でしょうか。「長崎の鐘」「この子を残して」で知られ、自ら被爆しながらも平和への願いを訴え続けた医学博士の永井隆さんの作詞による歌です。3番まである歌詞は、すべて「ああ あの子が生きていたならば」で終わります。

ついに帰らぬ おもかげと
知ってはいても 夕焼けの
門に出て見る 葉鶏頭
ああ 
あの子が生きていたならば

(永井隆 作詞 木野普見雄作曲「あの子」3番より 引用) 
    
もし「あの子が生きていたならば」と思う心の切なさが、子どもたちの歌声につらなって押し寄せてきます。子を失った親は、友は、どんな悲しみを超えてきたのでしょうか。私は思わずペンを走らせ、3番の歌詞を聞きながら書き写しました。

千三百もの子どもたちの命が一瞬にして奪われた長崎市立山里小学校。残された山里小のこどもたちのために永井博士が書いたこの歌は、平和式典だけではなく、戦後73年、変わらずに第2の校歌として歌い継がれているそうです。

子どものころに歌った歌は、不思議と忘れないものです。この歌を歌った子どもたちは大人になっても、思い出して口ずさむたびに、平和を願うことでしょう。

歌には、そんな大きな力があります。長崎だけではなく、一人でも多くの子どもたちに、歌い継がれてほしい。どうか二度とあのような戦争をおこさぬように。

そんなことを願いつつ、8月のブログは終わりたいと思います。
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