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加部一彦:子どもの生まれる現場から
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“いのち”の行方 第3回 「家族」を巡って

加部一彦:子どもの生まれる現場から

2007年も想像を絶するような出来事が立て続けに報道されています。ヒトがヒトを簡単に殺し、自分の「いのち」を簡単に絶ってしまう時代。そんな時代に生きているということから目を逸らそうとしても次々と突き付けられる現実に、戸惑っているだけでは済まされないという「覚悟」を決めて、この時代と真剣に対峙していくしかないのかもしれません。

今、「家族」が危ない

かつて「家族」は誰もが安心して過ごせる場所でした。しかし、「他人」であった夫婦のみならず、自分ともっとも近しい存在であるはずの親子間、兄弟姉妹間での殺人が次々に起っているばかりか、兄が妹を殺害し、その遺体をバラバラに切り刻む事件が発生し、世間に新たな衝撃を与えました。この兄妹、家族になにがあったのか、当事者以外に伺い知ることはできないと思いますが、いまや「家庭」さえも「安心」な場所ではなくなり、家族が身内に向ける「憎悪」の激しさにショックを受けました。

前回、家族であるからこそ、日頃のコミュニケーションをもっと大切にしないとならないんじゃないか、と書きましたが、そんな生ぬるい話ではなく、「肉親」・「身内」であるからこそ、お互いのコミュニケーションを意識しなければ危ない、今、「家族」が陥ってしまっている事態は、そこまで進んでいるのでしょう。

「ことば」の大切さ

ヒトは「ことば」を獲得したことにより社会性を身に付け、文明を築いてきました。「ことば」は人間にとって社会や家族を維持していく上で「無くてはならない手段」です。しかし、今、「ことば」は大切にされているでしょうか?

「ことば」が粗末に扱われる時、「ことば」によって成り立つコミュニケーションもまた、疎かになっています。「ことば」は何も声にして発するものだけではありません。無言の「ことば」。ちょっとした表情の変化やしぐさなど、ボディランゲージもです。例えば、生まれたての赤ちゃんは「ことば」を持ちませんが、そのかわり、彼らはあの無垢でつぶらな瞳で、周囲の大人たちに自然と「守りたい」と思わせたり、周囲を和ませたりすることができます。

その赤ちゃんも生後10ヶ月もすれば「突然、叫び声をあげ」たり、「モノを投げつけ」たりという「感情表現」が見られるようになり、この頃から盛んに喃語が聞かれるようになります。そして、1歳を越え、いよいよ子育てする親にとって「最初の試練」とも言える2歳から3歳の1年間を迎えます。なぜ、この1年間が親にとって「試練」なのか。それは、ボディランゲージで愛らしさを振りまく一方だった赤ちゃんも、この時期になると獲得したばかりの「ことば」を駆使して自己主張を始めるからです。それも強烈に。着替えをさせようとすれば「自分で、自分で」と駄々をこね、外出すれば突然、ぐずり出して大声で泣き叫び…、一体、何が起ったのか、途方に暮れることも稀ではありません。しかし、ここからが肝心です。子どもたちが泣き叫ぶのもぐずるのも、それは皆、未熟ながらコミュニケーションなのです。その「未熟なコミュニケーション」に、親は、周囲の大人はどの様に対峙していくのか? それこそが、家族の間に良好なコミュニケーションを育んでゆくための第一歩にほかならないのです。「子どもを叱ることができない」なんて言ってい場合ではありませんよ。

次回も引き続き、「ことば」とコミュニケーションについて考えて見たいと思います。

(2007.2)

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