ベビカムトップ
>
加部一彦:子どもの生まれる現場から
> “いのち”の行方 第2回「親子の絆」をはぐくむ育児

“いのち”の行方 第2回「親子の絆」をはぐくむ育児

加部一彦:子どもの生まれる現場から

季節も大分秋めいてきて、子どもたちを連れて外に出かけるのにも気分の良い季節になってきました。しかし、ひとたび目を世間に向けて見れば、相変わらず信じられない、信じたくないような出来事が日々報道されています。
「どうしても子どもがほしい」と、長い年月大変な不妊治療に取り組まれるご夫婦がいる一方で、親から虐待された揚げ句に殺されてしまったり、学校で深刻なイジメにあい自ら命を絶ってしまう子どもたちが後を絶たない…。
「いのちは地球より重い」といわれながら、その「存在」のなんと軽く儚いことでしょうか。

育児に成功や失敗はあるのか

どのような事件にもそこに至る事情や背景が存在し、また、それに大きな影響を与える社会の状況があります(例えば、さまざまな議論がありますが、日本でも経済格差が徐々に拡大している様に感じているのは気のせいでしょうか)。その分析を抜きにして、軽々しく解決方法を語ることはできませんが、最近の論調を見ていると、ひとたび何か事件が起こると、「子育ての失敗」、「親の責任」と、「親」が一方的な非難にさらされることが多いように感じられます。
もちろん、両親の監督下にある「子ども」が何か問題を起こした…となれば、その「責任」を両親が追求されることはやむを得ないのかも知れません。自分の子どもの行動や思考を見失っていたこと自体が親のあり方として問題なのだ、ということも、その通りなのでしょう。しかし、問題は、こうしたとらえ方では何の解決にも結びつかないのではないか、ということです。
そもそも「育児」に成功や失敗があるでしょうか。何か特別な幼児教育を行ったから・行わなかったから育児が成功・失敗する、というほど、一人の人間が「育つ」ということは単純ではないはずです。
育児には「神様」や「鉄人」なんて存在しないし、「100%成功する育児マニュアル」なんて便利なものも存在しません。一人ひとりの大人が違うように、一人ひとりの子どももみんな違う存在です。子どもを育てるとは、結局のところ、子どもを「自分といちばん近い他人である」と認識することにつきるように思います。それも「冷静」に。

親子の距離

子どもとの「距離」は、年々歳々異なります。1歳児とは1歳児の、3歳児とは3歳児との、そして難しい思春期を迎えた子どもたちとはまた、その年齢や子どもたちの成長にあわせた「親子の距離」があります。子どもがまだ小さな乳幼児期から、親子の「距離感」を意識しつつ子どもと接する、ということが大切であると思うのです。子どもを「自分に最も近い他人」とちょっと突き放して考えて見る。「他人」である以上、お互いに理解しあうためにはコミュニケーションは不可欠です。そして、コミュニケーションは一方通行であってはなりません。双方向のコミュニケーションが存在することこそが、相手を理解する上での基本ではないでしょうか。
私たち日本人は自分を主張することが苦手だとよく言われていますが、自己を主張するだけでなく、相手の「言い分」に耳を傾ける。特にまだ小さな子どもであっても、彼らの主張に耳を傾け、それにキチンとこたえていく。大人にとって、とりわけ子育てまっただ中の母親や父親にとっては、時に大変な忍耐を要することではありますが、「親子の絆」なんて特別に意識しなくともそんな日常的な、習慣的なコミュニケーションから育っていくのではないか、と思います。

子どもを巡る最近の状況の影に見え隠れするのは、家族や親子の人間関係そのものではないでしょうか。この問題、もう少し続けて考えて行きましょう。

(2006.11)

他のアドバイザーのコラムを読む

レギュラー

ゲスト

powerd by babycome