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ロシアの農奴制について

  • 2012-06-21 16:40
  • 一般公開
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「ロシアの農奴制」(ロシア の のうどせい、ロシア語: Крепостное право в России)では、モスクワ大公国の時代から帝政ロシアにかけてつづいたロシアの農奴制の特徴と展開について説明する。

ロシア・ツァーリ国の時代 [編集]
「ステンカ・ラージン」ワシーリー・スリコフ画(1906年、ロシア美術館)
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カスピ海をわたるスチェパン・ラージンイヴァン3世の孫で初めて「ツァーリ」の称号を公式に採用してロシア・ツァーリ国を建てたイヴァン4世(「イヴァン雷帝」)もまた1550年に同様の法典を定めた[3]。これは、1497年法典に改正を加えたもので、中小領主である士族層の経済的安定を図る一方で修道院や貴族層の土地所有制限条項をふくみ、また、代官への監督強化を盛り込んだ、全体としては中央集権化の方向性を示した法令であったが、農民の移動における「聖ユーリーの日」にかかわる規定については、前代をほぼ踏襲した[3]。イヴァン4世統治下のロシアは、コサック(カザーク)の頭領イェルマークの遠征などにより、その版図をシベリアに広げたが、このような外的な発展は内的にはむしろ農奴制への傾斜をもたらした[4]。中央部や北西部の農民の多くが、のしかかる負担の重さから領主のもとを離れ、南方や東方の辺境へと向かった[4]。そのため、イヴァン治世晩年の頃には「聖ユーリーの日」の規定は廃止され、1580年の勅令で農奴制の基礎が確立し、1581年と1582年は一切の農民の移動を禁ずる「禁止年」に定められた[4][5]。また、領主に対しては、逃亡農民捜索権および逃亡先への身柄引き渡し請求権が認められた。

ロマノフ朝第2代のアレクセイのとき、1649年の全国会議で制定された「会議法典(1649年法典)」によって、農奴制の立法化がおこなわれた。この法典は全体で25章967項よりなるものであったが、そのうち最も著名なものは農民裁判に関する規定(第11章)であった[6]。ここでは、逃亡農民の捜索期限が撤廃されて無制限となり、これよりのち逃亡農民をかくまう者に対しては高額な罰金が定められて農民の土地緊縛が完成した[6]。16世紀末葉から17世紀中葉にかけては、ロシア史上、本格的な農奴制の成立をみた時期である[2][6]。

しかし、こうした土地緊縛に対し農民たちはしばしば激しく抵抗し、肥沃ではあるが人口の少ない南部などに逃亡をはかる者が少なくなかった。その一方、南ロシアを本拠とするドン・カザークは慣習法を盾にして逃亡者の引き渡しに応じないことも多く、このことは、カザークの軍事力に依存する部分の大きかったロマノフ朝をおおいに悩ませた[7]。

アレクセイ帝治下の1670年から1671年にかけては、ドン・カザークのスチェパン・ラージンを中心に大規模な反乱が起こっている(ステンカ・ラージンの農民反乱)。この反乱とその首謀者についてはロシア民謡「ステンカ・ラージン」で広く知られるところである[1]。反乱の原因のひとつに、農業に見切りをつけた逃亡民がドン・カザークの地に大量に流入したことが挙げられる[6]。ただし、この頃までは地主と農民の関係はまだ契約にもとづく要素があり、農民の地位は後年ほど苛酷なものではなかった[1]。

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