あなたの子守り唄は?

  • 2014-06-26 21:07
  • 一般公開
  • テーマ:思い出

「かなりや」 西條八十作詞 成田為三作曲

唄(うた)を忘れた 金糸雀(かなりや)は
後(うしろ)の山に 棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は
背戸(せど)の小薮(こやぶ)に 埋(い)けましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は
柳の鞭(むち)で ぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は
象牙(ぞうげ)の船に 銀の櫂(かい)
月夜の海に 浮(うか)べれば
忘れた唄を おもいだす


*西條八十の詩は、1919年「赤い鳥」に曲譜とともに発表され、翌年にはレコードに収録された。この唄は、新しく誕生した童謡というものを世の人々に知らしめた「最初の」そして、最も代表的な作品であり、歌の最終部を刻んだ歌碑は東京の上野公園の不忍池畔にある。


私にとっての子守り唄は、母が歌ってくれた「七つの子」、そして一回り年の違う兄の背で聴いた「かなりや」です。今回のブログには、その兄の話を綴りたいと思います。

私が生まれた1935年7月20日は、両国の川開き(花火)の日でした。その日、家中が母の実家がある日本橋に花火見物に出かけており、母と7人いる兄のうち、上から3番目のこの兄だけが家におりました。兄は開成中学の受験のために家に残って勉強していたとか。そのため、その3番目の兄からは「お前は花火みたいにポンポンと元気よく生まれてきた」とよく言われました。まさか、今のように“立ち会い出産”をしたわけではなかったのでしょうが、家中で最初に新生児の私を抱っこしたということで、それはそれは私を可愛がってくれました。

学齢前の私は、中学からずっと水泳選手だったこの兄の背に乗って、夏が来るたびに千葉県外房の海で一緒に波乗りをさせてもらいました。他の兄たちにはスパルタ式で教えるのに、私にはやさしく水に慣れさせてくれたことを今でも鮮明に思い出します。戦時中、小学3年の時に学寮があった軽井沢に集団疎開をしていた時、まめに手紙をくれたのもこの兄でした(その手紙は今でも大事にとってあります)。

私が栄養士になったことや、水泳指導を仕事にしたことについても、一番理解を示してくれた兄は、東北帝大(今の東北大学)医学部を卒業後、10年の間に公立藤田病院、釜石市立病院、東北大学附属病院で医師として勤務。その後1959年に福島県郡山市の寿泉堂総合病院の内科部長になりました。この年、私は結婚。夫がNHK仙台放送局勤務となり仙台に住むことになったのですが、兄は入れ替わりに郡山へ行くことになってしまいました。

まもなく私は第一子を妊娠。“つわり”がひどく、当時よく効くと評判だった薬を飲みたいと、郡山の兄に相談したところ「新薬に手を出してはいけない」と、きつく言われてしまいました。そのときは、内心、兄を恨んだものです。が、その薬の名は『サリドマイド』。兄のお陰で、私の長男はエンジェルベビーにならずに生まれてきてくれたのです。あのとき、兄の言うことをきいて良かったと今でも改めて思います。

その後、兄は70歳で10年間勤めた院長を辞してもなお、まだまだ元気に内科医として活躍。東日本大震災の後は、「医師が足りないから」と言って、昨年まで文字通り生涯現役の医師で通しておりました。私は常日頃から、胎児の間の10ヶ月を無視して、新生児をゼロ歳と呼ぶことに反抗しています。ですから、1935年生まれの私は、数えで言うと今年80歳。同じ亥年生まれのこの兄は、92歳。しかしながら、人の病を治してきた兄も自分のことはどうにもならなかったようで、それでもおだやかにこの世に別れを告げて手の届かないところへ旅立ってしまいました。

長い間、地域医療に貢献し、温厚で優しい人柄で周囲の方々に親しまれていた兄。兄の息子から、父へと捧ぐ言葉は「よくがんばりましたね。今は長年歩んできた道のりを“いい人生だったね”と讃え、見送ります」とー。

そんな兄を妹として誇りに思います。そして人様の役に立つことを私も真似しようと思います。宗吉兄さまは、これからもずっと…ずっと私の心に生き続けていきます。
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